中央区の変遷

都心の賃貸を考える人達にとって、買い物が便利かどうかは気になるところです。

昔から、市場というのは、街の発展にとても重要な役割を担っていました。

江戸時代、日本橋には魚河岸という魚市場がありました。近海から集まる魚は、江戸市民の食を支え、日本橋が商業地として発展するきっかけのひとつとなりました。

日本橋魚河岸の特徴は、海や港のそばではなくて、町人や武士が住む街の近くにあったことです。

利便性がとても高かったということです。そういった街づくりができたのは、海や港からスピーディーに魚を運べる運河の存在が大きかったといえます。

銀座というのはその名のとおり、江戸時代に銀貨を鋳造していた街でした。繁華街というよりも、町人や職人が住む街という趣がありました。

今のような繁華街になったのは、明治前期です。火災をきっかけに燃えにくい近代的な街をということで、煉瓦街が形成されました。

銀座は日本でも最先端の整備がされた街となり、商店などが集まってきました。

要人や外国人も多く訪れるようになって、繁華街になっていきました。ガス灯や赤レンガの建物の銀座は文明開化の象徴になっていきました。

中央区の明石町には、蘭学事始の地と慶應義塾発祥の地という2つの記念碑があります。

蘭学事始の地というのは、江戸時代、日本初の西洋医学書の解体新書の翻訳が、前野良沢、杉田玄白によって、この地で完成されたからです。

慶應義塾発祥の地というのは、福沢諭吉が慶應義塾を開いたことが碑の置かれた理由です。

江戸時代の明石町周辺は、西洋の学問に理解のあった中津藩奥平家の敷地でした。

前野は中津藩の藩医で、福沢諭吉は中津藩士でした。記念碑は聖路加国際病院の横にあります。

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