千代田区の変遷

千代田区というのは、永田町や霞が関が思い浮かぶと思います。政治、行政の中心という感じです。

江戸時代は、江戸城内が行政の場でした。明治以降には、江戸城の敷地は皇居となりました。

政治・行政期間は皇居周辺に設けられるようになりました。天皇の住む御所の周囲に政治・行政期間が配されたのは、京都の朝廷政治の形を彷彿とさせます。

明治維新の王政復古は、政治しシステムだけではなく、街づくりにも表れているといえます。

ちなみに丸の内は、この政治・行政機関が集中したエリアに隣接する商業地として開発されたました。

皇居の北側は大学の街です。西北は住宅地。これは江戸時代からの継承となります。近代の千代田区というのは、職・住・学・商がまとまっているといえます。

高級賃貸も多く、ファミリーにも人気があります。現在の丸の内は、明治初期は陸軍の兵舎・練兵場があったところです。

ここから陸軍が移転したら、この一帯はなにもない原っぱになりました。

政府は、この場所を三菱財閥の二代目当主、岩崎弥之助に払い下げました。

それには三菱の手で丸の内を人が集う活気のある商業地にしてほしいという狙いがあったと言われています。

岩崎はこの地を、ロンドンのロンバート街を参考にして、レンガ街を作ったそうです。

街は発展を続け、現在の丸の内とつながっています。江戸という地名のルーツは、一般的には川や入り江を表す「江」、入り口や港を表す「戸」が由来といわれています。

かつて入り江だた現在の皇居周辺の地名だったと考えられているといいます。

その後、平安時代末期に、この江戸一帯の領主となった秩父重継という武士が、それを期に江戸重継と改、江戸の名が普及のきっかけを作りました。

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